方言札
「方言札」というものを知っているだろうか。
学校で、その土地の言葉を話した子どもに渡された、小さな札である。
首から掛けさせられることもあれば、立たされたり、掃除を命じられたり、成績を下げられたりすることもあった。
罰の形は学校や地域によって違っていて、次にしまくとぅば(島の方言)を話す子を見つけるまで、札を持たされ続けたという話も残っている。
そのため子どもたちは、自分の言葉を抑えるだけでなく、誰かがしまくとぅばを話さないか、互いを監視するようにさえなっていった。
家庭で覚えた言葉、祖父母や両親が話す言葉。
生まれ育った土地で、当たり前のように使われていた言葉。
それが学校へ行くと、「使ってはいけない言葉」に変わった。
方言札は、いつからいつまで使われたのか
一八七九年の琉球処分以降、沖縄では日本への同化が進み、学校教育でも標準語の普及が図られていく。
ただし方言札は、ある年に一斉に導入され、ある年に一斉に廃止された制度ではない。
学校や教師によって使われる時期がばらばらだったため、始まりと終わりを一つの年で区切るのは難しい。
現在確認されている最も古い事例は、一八九五年から一八九六年頃まで遡る。
一九一一年には、沖縄県内の小学校教育の手本とされていた沖縄県師範学校附属小学校でも導入され、これが一つの転機となって沖縄各地の学校へ広がっていった。
そして一九三九年、国民精神総動員運動の一環として標準語励行運動が推進されると、しまくとぅばを使わせないための教育はさらに厳しさを増す。
だが方言札は、一九四五年の敗戦で学校からすぐに消えたわけではない。
戦後のアメリカ統治下でも使われ続け、昭和四十年代まで残っていたとする研究もある。
沖縄が日本へ復帰した一九七二年、那覇市内の小学校で方言札を受けたという当事者の証言すら残されている。
確認できる範囲だけで、一八九〇年代半ばから一九七〇年代まで、実に八十年近く。
方言札は遠い明治時代だけの話ではなく、戦後に生まれ、いま現在も生きている人たちが実際に経験した出来事なのだ。
「正しい言葉」と「間違った言葉」
子どもたちは学校で、標準語こそが「正しい言葉」であり、しまくとぅばは直すべきものだと教えられた。
だがそれは、単なる言葉遣いの矯正では済まなかった。
子どもたちに、自分の家族が話す言葉そのものを否定させる仕組みでもあったからだ。
祖父母の言葉を話せば罰せられる。生まれた土地の言葉を使えば笑われる。
そうして自分たちの言葉を話すこと自体が、恥ずかしいことへとすり替えられていった。
方言札の本当の恐ろしさは、子どもたちの口を閉ざしたことだけではないと私は思う。
「自分たちの言葉は劣っている」そう思い込ませたことにある。
言葉の中にあるもの、言葉は、ただ物の名前を伝える道具ではない。
その土地で暮らしてきた人々が何を見て、何を感じ、どう世界を捉えてきたか。その積み重ねが、言葉の中に残されている。
海の状態を表す言葉、風の向きや季節の変化を表す言葉、島や集落の地名、家族や親族の呼び方、人を笑わせるときの言い回し、悲しいとき誰かに寄り添うための言葉、祖先へ語りかける言葉、神へ捧げる祈りや、祭祀で唱えられてきた言葉。
標準語へ訳せば、意味だけは説明できるかもしれない。
けれどその音や響き、言葉が発せられる間、そこに込められてきた感情まで、同じように移すことはできない。
祈りの言葉を標準語に置き換えたとき、それは祈りの「説明」にはなっても、受け継がれてきた祈りそのものとは、少し違うものになってしまう。
言語は文化を保存する入れ物ではなく、言語そのものが文化なのだと思う。
「方言」と呼ばれた言語そもそも沖縄の言葉は、一つではない。
沖縄本島、国頭、宮古、八重山、与那国。それぞれの地域で言葉が異なり、同じ島の中でも集落によって発音や言い回しが違うことがある。
現在、国頭語・沖縄語・宮古語・八重山語・与那国語は、いずれも消滅の危機にある言語として挙げられている。
かつて「方言」として一つにまとめられ、標準語より下に置かれたものは、本来それぞれの土地で長い時間をかけて育まれてきた独立した言語だった。
「方言札」という名前そのものに、標準語を中心に置き、それ以外を周縁へ追いやる視線が透けて見える。
札が消えたあとに残ったもの
自分は那覇で育った。同じ世代を見渡しても、おじぃやおばぁのように方言を話せる人は、そう多くなかった。
話す言葉を聞いたことはあっても、それを自分の言葉として使える人は少なかったのだ。
方言札が学校から姿を消したからといって、失われた言葉がその瞬間に戻ってくるわけではない。
祖父母は話すことができる、親の世代は聞けば分かる。
けれど子や孫の世代になると、聞いても分からず、話すこともできない。
そういう断絶が世代ごとに生まれていった。
方言札を掛けられ、自分たちの言葉を否定された子どもたちは、やがて親や祖父母になる。
自分の子どもには同じ思いをさせたくない、社会に出て苦労しないよう標準語を話せるようにしたい、そこには子どもの将来を思う親心も、確かにあったのだと思う。
けれどその選択が繰り返されるうちに、しまくとぅばは家庭の中でも使われなくなり、次の世代へ渡されなくなっていった。
もちろん、現在のしまくとぅばの衰退を方言札だけで説明することはできない。
沖縄戦による大きな喪失、戦後の社会や生活環境の変化、都市化、学校教育、テレビやラジオ、いくつもの要因が重なっている。
それでも、方言札がなくなった後に生まれた世代が、おじぃやおばぁと同じ言葉を話せないという事実の中に、断絶の深さが表れているように感じる。
方言札のない時代
地方の言葉が使われなくなっている背景には、SNSも関係していると考えられる。
ただし方言の共通語化は、SNSが登場するずっと前から進んでいた。
学校教育、テレビやラジオ、都市化、人の移動によって、若い世代ほど共通語に近い言葉を使うようになっていたからだ。
SNSは、そこへ新しい変化を加えたにすぎない。
以前なら日常的に言葉を交わす相手の多くは、家族や近所の人、同じ地域の友人だった。
今は地域を越えて全国の人、世界中の人と日常的につながっている。
誰にでも伝わるように書こうとすれば、自然と方言を避け、共通語を選ぶようになる。
特に不特定多数が読む投稿では、その傾向が強い。
一方で、SNSが方言を消す方向にだけ働いているわけでもない。
地元の友人とのLINEや、親しい人だけが見る場所では、仲間意識を表すために意識して方言を使う人もいる。
地域の言葉を発信し、記録し、これまで知らなかった人へ届けられるようになったのも、SNSがもたらした変化の一つだ。
つまりSNSは、方言を薄める場所であると同時に、方言を見せ、広げ、あらためて使う場所にもなっている。
ただ、そこで使われる方言が、祖父母の世代が日常で話していた言語と同じものだとは限らない。
沖縄の若い世代が話している言葉も、完全な標準語ではない。共通語と沖縄の言葉が混ざって生まれた「ウチナーヤマトゥグチ」が、いまの沖縄では地域の共通語として使われている。
沖縄らしい発音や言い回しは残っているものの、おじぃやおばぁが話していた伝統的なしまくとぅばと同じものではない。
だから言葉の変化を、単純に「方言が消え、標準語になった」とだけ捉えることはできない。
沖縄の言葉は、すべて消えたわけではなく、形を変えながら残っているものもある。
それでも、祖父母が話していた言葉を理解できなくなれば、昔から伝わる歌や物語、祈りの言葉へ入る道は、少しずつ狭くなっていく。
言葉を奪われるということ
昔は、方言札によって言葉を使わないよう強制された。
今は、誰も札を掛けない。
けれど、より多くの人に伝わる言葉だけを選び続けるうちに、地域の言葉が日常から静かに消えていくことがある。
強制によって奪われる言葉と、便利さの中で使われなくなる言葉、その二つはイコールではない。
それでも、使われなくなった言葉が次の世代へ渡らなくなるという点では、いまの私たちもまた、言葉と文化の分かれ道に立っている。
言語を奪うということは、話す手段を一つ減らすことではないと思う。
その土地の人々が何を見て、何を感じ、何を祈ってきたのか、その世界へ入る道を閉ざすことなのだ。
方言札は、小さな札だった。
けれど子どもたちの胸に掛けられたものは、「自分たちの言葉は恥ずかしい」という、世代を越えて残る重い印だった。
言語を奪われることは、文化を奪われること。
だから、しまくとぅばを残すということは、昔の言葉を保存するだけの作業ではなく。
一度閉ざされた島の記憶へ続く道を、もう一度開いていくことなのだと思う。




この小さく見える木製の札1枚が、どれだけのひとの心を傷つけ、大切なものを奪ったのかを考えると、
この札を、この札の文字を見るにつけ、心が痛みます。
これから先は、むしろその奪われたものの価値を拾いながらみんなで考えていくことに価値が見出だされる時代になるのではないかと、個人的には思っていますし、そうなることを願っています。
貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました😊